松岬神社に祀られている上杉鷹山を紹介しています

上杉鷹山

日向高鍋藩主・秋月種美の次男で、母は筑前秋月藩主・黒田長貞の娘です。 宝暦10年(1760年)10歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となり17歳で出羽国米沢藩の第9代藩主となりました。
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨で約150億から200億円)に累積する一方、 石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをせず、 他藩とは比較にならないほど家臣の割合が高く藩財政に深刻な負担を与えていました。
そのような状況のなか藩主に就いた上杉鷹山(ようざん)は財政改革・産業開発・倹約奨励・文教刷新等、 藩政改革に努力し藩財政を立て直しました。苦難の末に今日の米沢の礎を作り上げた中興の祖として敬われています。
かの天明に大飢饉にも領内から人りの餓死者もださなかったという故事は余りにも有名です。 江戸時代屈指の名君と言われています。
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天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子、治広に譲って隠居するが、 逝去まで後継藩主を後見し藩政を実質指導しました。
文政5年に死去 享年72歳、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所、祭神として松岬神社に祀られています。
「伝国の辞」どうしてこのような考えを持った人が生まれ育ったのかと素直に思います。 その時代に、現代の民主主義そのものの考えは正直異端です。 今でこそ当り前であっても江戸時代です。現代とはまるで違う。
師、細井平州の出会いが彼の行動哲学の素なのでしょうネ。
藩主自ら米沢の入口まで迎えに出向いた事でも判る通り 彼にとっては藩政改革の根本、原理・原則のバックボーンだったのでしょう。
また、当時の売れっ子平州が米沢招聘の代金、扶持加増を辞退するなどは 師弟の関係が本物だったことが伺われます。
彼と同じ松岬神社に祀られている細井平州(・・・・)先生は本物!?、、、、
この方、気になります。
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